2006年04月17日

「坂の上の雲」に隠された歴史の真実

書名:「坂の上の雲」に隠された歴史の真実〜明治と昭和の虚像と実像
著者:福井雄三
出版:主婦の友社
内容:司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は超ベストセラーであり、国民文
  学といっても良い作品である。この小説が日本国民の精神に及ぼし
  た影響は計り知れぬほど大きいと思われる。それは他の司馬文学と
  あわせ、日本人の心に勇気と誇りを与えてくれた作品であり、これ
  らから「司馬史観」という言葉も生まれた。

  筆者は以上を認めたうえで、小説である以上史実の捉え方において
  問題点があることを指摘しなければならないとする。本書では、司
  馬史観の功罪について触れ、それを契機に戦後60年経った現在の時
  点で、戦後のすりこみ教育や偏見に毒されない曇りない歴史認識を
  提示したい。

感想:「坂の上の雲」におけるひとつの特徴に、旅順攻防戦における乃
  木将軍への厳しい評価がある。武人としての人格こそ高く評価され
  ているものの、203高地という戦略上の要衝を軽視し続けたがゆ
  えにいたずらに犠牲を増やしてしまった愚将であると。

  本書は、その描き方を司馬遼太郎のストーリーテラーとしての想像
  力が片方に偏りすぎたがゆえの一方的な見方であり、「詳細に分析
  すれば的外れである」と主張している。

  無謀な肉弾攻撃というのは実際には強襲法と呼ばれる、砲兵の火力
  制圧と歩兵突撃の2段階からなる極めて近代的手法であったし、そ
  れが失敗に終わった後の戦術もかなり多彩に行っている。要塞を放
  置してでも旅順港内の戦艦を撃沈してしまえば、あとは奉天へ異動
  してもよいというのは暴論であって、何が何でも旅順を陥落させる
  必要はあった。

  乃木はむしろ、過酷な条件下でも決して動揺することなく将兵をし
  っかりとまとめ続けた類まれな指導力を発揮していたのだ。児玉が
  一時的に指揮をとったあとただちに203高地を取ることができたの
  も、その後の旅順攻略がすんなり行ったのも、結局前段の犠牲あっ
  たればこそ。本書ではこのように述べ、乃木がダメで児玉が良いと
  いったいたずらに勝敗の原因を善悪ニ元論的に単純化してしまうこ
  との危険性を指摘している。

  筆者はこのようなスタンスで、ドイツの第一次世界大戦敗戦の後の
  ヒトラー登場とユダヤ人大迫害について、ヒトラーおよびナチスの
  みを悪玉として断罪することも批判の対象とする。当時のドイツに
  おける「ドイツの敗戦は国内のユダヤ勢力の裏切りのせいだ」とす
  る一面的な世論(それは当時のヨーロッパにおける根強い偏見から
  のものといえよう)が、ひいてはあのホロコーストの元凶となった
  点を指摘する。

  さらには筆者は、ノモンハン事件を描いた半藤一利氏の「ノモンハ
  ンの夏」についても取り上げている。一般に同事件は日本陸軍がソ
  連の機械化戦車部隊により惨敗を喫した戦いとされており、まさに
  「ノモンハンの夏」でもそうしたスタンスで描き昭和における日本
  陸軍の無能さを強調している。

  しかし、これも筆者によれば、ソ連崩壊にともない明らかとなった
  資料によれば実は戦争としては大勝利といってもいい(実に10倍の
  戦力を相手に奮戦し、全滅することなく持ちこたえた)という。敗
  北したのはむしろ、ひとえに平和外交に徹しようとした外交戦略が
  却って裏目に出て、外交で敗れた形になったのだと。

  筆者は以上の例を踏まえ、昭和初頭の日本をいたずらに暗黒時代と
  みなすのを自虐史観と称して(#)批判するのだが、ここまで見解が異
  なるともはや、専門の歴史家ではない私にはどちらが妥当な主張な
  のか、確言できそうにない。例え単純なことでも、歴史を客観的に
  評価することの難しさをつくづく思い知らされた。

(#)この用語を好んで使っているところからして、有名な「つくる会」系の人なのだろうか・・・
 だからといって逆方向からの偏見でこの本を読むべきでない。一つの貴重な意見として受け止める
 べきだ。
posted by 半端者 at 11:41| Comment(0) | TrackBack(2) | 硬めの書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

靖国問題

半端者は基本的にノンポリであるが、本書は相当程度説得力のある論考であり、紹介に足るものだと思う。

書名:靖国問題
著者:高橋哲哉
出版:ちくま新書
内容:21世紀の今も、なお「問題」であり続ける「靖国」。「A級戦犯合
  祀」「政教分離」「首相参拝」などの諸点については今も多くの意見
  が対立し、その議論は多くの激しい「思い」を引き起こす。だが、
  その「思い」に共感するだけでは、あるいは「政治的決着」を図る
  だけでは何の解決にもならないだろう。

  本書では、靖国を具体的な歴史の場に置きなおしながら、それが
  「国家」の装置としてどのような機能と役割をになってきたのかを
  明らかにし、犀利な哲学論議で解決の地平を示す。決定的論考。
  (以上裏表紙の解説より)
感想:とかく遺族関係の感情的なしこりばかりが報道される靖国問題。特   に、国外からの感情的反発が主に報道されているが、一方で日本の戦
  争遺族会側の論調の粘着質な感情論もはなはだしいものがある。本書
  に引用されている靖国神社側に立つ遺族の論告を読むと、まるきり韓   国・中国のヒステリックな論調を裏返したようなものであった。

  本書はこういった感情の問題が大きいことを踏まえたうえで、あくま
  でも論理的に、そもそも靖国神社の成り立ちからその機能を分析し、
  また多くの意見についても検討を加えている。その結果、国家の名の
  下に国民の命をささげることを正義とし、肉親を失う「悲哀」を「進
  んで命を捨てる喜び」に転化するように組織的な洗脳を行う「装置」
  としての靖国神社のおぞましい姿が、客観的に明らかになってくる。

  これを読んだとき、もはや「A級戦犯を分祀すればいい」などという
  韓国・中国政府筋からの意見ですら所詮政治的決着以上のものでは
  ないということがよくわかる。

  筆者はさらに、遺族の分祀要求にすら応じようとしないその硬直的な
  態度が「信教の自由」に基づき正当化されていることの不合理性を
  指摘し、その上で、概ね次のように提言している。

  「靖国神社は、名実ともに国家機関としての性質を完全に排除すべき
  である。首相参拝や天皇参拝といった政治的癒着を排除すべきであ    る。」
  「A級戦犯であるかどうかではなく、合祀廃止を求める遺族の要求に
  基づく分祀に応じること。靖国側の信教の自由という名目のもとに
  遺族の権利を侵害することは許されない。」
  「靖国遊就館の展示に代表される、近代日本のすべての戦争をむやみ
  に美化し、正義の戦争と断定するような歴史観は、自由な言論により
  克服していくべきである。」
  「『第二、第三の靖国』出現を阻止するために、非戦の誓いを継続し
  ていくための不断の努力が求められる。」

  以上が実現されて初めて、靖国神社は「そこに祀られたいと遺族が望
  む戦死者のみ、を祀る一宗教法人」として存続することができる、と。

  この主張は、靖国神社側の公式見解に対する、実に強力な反論になっ
  ていると思う。実際、分祀が信教上できない、と断じているのは靖国
  神社という法人なわけだが、そもそも、信教の自由を法人である靖国
  神社が持っているのだとしても、それが自然人である遺族個人の信教
  上の自由と同等以上の重みがあるはずはない。もしそれを認めるなら、  それは宗教の名の下に行われるファシズムになってしまう。

  理性ある市民なら、是非一度この視点で問題を見直すべきだと考える。

バランスを取る為もう一言
posted by 半端者 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(2) | 硬めの書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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